2009年03月01日
原画を探して清水へ そこで見つけたものは
原爆体験絵画集のために、原画があれば一番いいのだが…
祖父宅から、5枚だけ発見した。
保存状態が悪く、破れたり、テープのあとがある…

後の、16枚はどこにいったのだろう。
祖父も憶えていない…
ワイワイ騒いでいたら、被爆者の会会長から電話が入った。
清水の外岡さんの葬式の参列者から、
原画があるかもしれないという情報を得たという。
静岡で、原爆絵画のために筆をとった被爆者は8人いた。
お葬式のあった外岡さんはそのうちの1人。
この絵をかいた人で、去年一度だけ会うことができた。
●外岡さんのかいた絵

胃潰瘍や、戦後20年もたってから歯が次々抜けるなど、
被爆者に様々な症状が出る中で、私の祖父と似た症状を経験していた。
外岡さんが亡くなり、絵画の作者で存命なのは、あと3人となった。
小雨の降りしきる日に、清水のAさん宅を訪問して、
外岡さんから託されたというパネルを見せてもらった。
もしかしてと思って期待していたけれど、それは原画ではなかった。
県の被爆者の会が使っているパネルよりも、一回り小さい複製パネルだった。
しかし、思わぬものを発見した。

(右側が清水で発見した原画 母親の表情がすこし違う)
5枚のうちの1枚と、まったく同じ構図で描かれた絵だ。
地元の展示用にと、あらためてかいたのだろう。
同じものをかけるということは、その光景が瞼に焼き付けられていたからだ。
2枚の絵をみながらそう実感した。
実は去年、生前の外岡さんに会いに行ったことがある。
2008年秋のある日、静岡市清水区(旧清水市)の被爆者、外岡(とのおか)さん宅へおじゃました。
玄関を上がると、棚に陶器が並べられている。
外岡さんの趣味で、庭に建てた窯で焼いたそうだ。
赤ん坊が元気に泣いている。「俺のヒコ(曾孫)だ」と嬉しそうに言う。
そのにぎやかな泣声のなかでお話を聞いた。
外岡さんは15歳のとき、クリーニング屋で奉公する小僧となり、
住み込みで働き始める。当時のしきたりで実家に帰ることもできない。
19歳で親方の舎弟の店に移らされ、仕事も会計も全部切り盛りさせられた。
未成年に任せてはいけないはずだが、親方の指図で仕方が無かった。
20歳の徴兵検査で、まずいことに甲種合格してしまう。
満州北部、関東軍独立守備隊に配属された。
3年任期を勤め上げ満期になった11月、内地に帰ってきた。
その翌月、真珠湾攻撃で戦争が始まった。
また兵隊にとられるかと思っていたが、なかなか来なかった。
昭和19年6月、「よめっこ」をもらうことになった。
結納を済ませて、仲人のおばさんと家に帰る道、
そこに市役所のじいさんがついてきた。
家に到着し、そのじいさんが差し出したのは召集令状だった。
それで大騒ぎになって、すぐに結婚式を挙げ、1週間後は兵隊になっていた。
翌年8月6日原爆に遭う。
その外岡さんがかいたのが、死んだ子を抱く母親の絵だ。
2009年1月11日永眠 享年91歳
祖父宅から、5枚だけ発見した。
保存状態が悪く、破れたり、テープのあとがある…

後の、16枚はどこにいったのだろう。
祖父も憶えていない…
ワイワイ騒いでいたら、被爆者の会会長から電話が入った。
清水の外岡さんの葬式の参列者から、
原画があるかもしれないという情報を得たという。
静岡で、原爆絵画のために筆をとった被爆者は8人いた。
お葬式のあった外岡さんはそのうちの1人。
この絵をかいた人で、去年一度だけ会うことができた。
●外岡さんのかいた絵

胃潰瘍や、戦後20年もたってから歯が次々抜けるなど、
被爆者に様々な症状が出る中で、私の祖父と似た症状を経験していた。
外岡さんが亡くなり、絵画の作者で存命なのは、あと3人となった。
小雨の降りしきる日に、清水のAさん宅を訪問して、
外岡さんから託されたというパネルを見せてもらった。
もしかしてと思って期待していたけれど、それは原画ではなかった。
県の被爆者の会が使っているパネルよりも、一回り小さい複製パネルだった。
しかし、思わぬものを発見した。

(右側が清水で発見した原画 母親の表情がすこし違う)
5枚のうちの1枚と、まったく同じ構図で描かれた絵だ。
地元の展示用にと、あらためてかいたのだろう。
同じものをかけるということは、その光景が瞼に焼き付けられていたからだ。
2枚の絵をみながらそう実感した。
実は去年、生前の外岡さんに会いに行ったことがある。
2008年秋のある日、静岡市清水区(旧清水市)の被爆者、外岡(とのおか)さん宅へおじゃました。
玄関を上がると、棚に陶器が並べられている。
外岡さんの趣味で、庭に建てた窯で焼いたそうだ。
赤ん坊が元気に泣いている。「俺のヒコ(曾孫)だ」と嬉しそうに言う。
そのにぎやかな泣声のなかでお話を聞いた。
外岡さんは15歳のとき、クリーニング屋で奉公する小僧となり、
住み込みで働き始める。当時のしきたりで実家に帰ることもできない。
19歳で親方の舎弟の店に移らされ、仕事も会計も全部切り盛りさせられた。
未成年に任せてはいけないはずだが、親方の指図で仕方が無かった。
20歳の徴兵検査で、まずいことに甲種合格してしまう。
満州北部、関東軍独立守備隊に配属された。
3年任期を勤め上げ満期になった11月、内地に帰ってきた。
その翌月、真珠湾攻撃で戦争が始まった。
また兵隊にとられるかと思っていたが、なかなか来なかった。
昭和19年6月、「よめっこ」をもらうことになった。
結納を済ませて、仲人のおばさんと家に帰る道、
そこに市役所のじいさんがついてきた。
家に到着し、そのじいさんが差し出したのは召集令状だった。
それで大騒ぎになって、すぐに結婚式を挙げ、1週間後は兵隊になっていた。
翌年8月6日原爆に遭う。
その外岡さんがかいたのが、死んだ子を抱く母親の絵だ。
2009年1月11日永眠 享年91歳
Posted by ディレクターD at 12:00│Comments(0)
│原爆絵画
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